子育ておじさん

40代のおっさんの子育てメモ

このこの七つのお祝いに

息子 0歳

 

「子どもが成人する時、俺は何歳なんだろう」

毎日新聞の「高齢パパを生きる」という連載の中に出てきた大学教授の言葉だ(この記事)。私を含め40を過ぎて親になった人間は誰しも思うはず。

まず息子が小学生のうちに自分が50代になる。晩産化が進んでいるとはいえ、クラスでもかなり上の方だろう。授業参観でおじいちゃん扱いされるんじゃないか。走り回る息子の相手をする体力は残っているんだろうか。

 

昔は運動部に所属していたし、社会人になってしばらくしてから運動不足解消のためにジムにも通った。子どもが生まれるタイミングでジムは退会。子どもの相手をするのにも体力を使うだろう、むしろ鍛えられるんじゃないかと楽観的に見ていた。

そんな私をまず襲ったのが、四十肩の現実。

赤ちゃんが起きている間はとにかく抱っこ。息子は低体重で生まれたが、無事にぐんぐん重くなり、あっという間に体重は倍に。

5キロ入っている米の袋の重さだ。あの重さで時折バタバタと動いたり泣いたりする。何があろうと落としてはいけない。

それは腕も肩も腰もガチガチになる。あっさり左肩がやられた。腕を上げると痛みが走る。

成長曲線を見ると赤ちゃんは半年で6~7キロにはなるらしい。先が思いやられる。

 

そんな中両親が孫の顔を見に来る。大はしゃぎだ。

ただ孫を愛でるだけ。遠くに住んでいるから2,3時間滞在してすぐに帰っていった。夜に腹をすかせて泣くことも、お風呂に入るときに服を脱がせると嫌がって泣くことも、おむつを替えている最中にさらにおしっこをすることもリアルには知らない。

ちょっとは手伝ってくれよ、とも思う。

とはいえ、先ほどの記事にあったように「ダブルケア」になるケースもある。実家を離れている自分の場合は物理的に不可能だ。それを考えれば、まずまず元気でいてくれる親はありがたい。

 

そもそも私を育てた時代の親は大変だっただろう。家電もそこまで充実していないから家事の負担は重い。情報もネットですぐ手に入るわけではない。紙おむつでなく布おむつで、おしっこ・うんちの度に洗うなんて気が遠くなりそうだ。

よく育ててくれたものだと思う。

孫というのは子どもを育てた人だけに贈られる最後のごほうび。そう考えれば単に愛でて帰っていくだけでもいいか。

 

むしろ孫ができるのが遅かったために、両親のほうは「孫が成人する時、そもそも生きているんだろうか」と自問しているかもしれない。

 

さて自分はそのごほうびがもらえるんだろうか。結果はさらに気の遠くなるほどはるか先のこと。

スペランカー

息子 0歳

 

赤ちゃんは、すぐ死ぬ。

独力で栄養を取ることはもちろんできないし、あらゆる事故に対して無防備だ。

 

妻が青ざめて言う。

「寝床が冷たいかなと思って、下におくるみを敷いておいて。ちょっと目を離した後で様子を見てみたら、顔がおくるみに覆われてるの。ほんとびびった。こんなんで窒息するのかって。危ないとこだった」

 

乳幼児突然死症候群SIDS)なんていうのもある。はっきりした原因は不明だとか、恐ろしすぎる。

そしてちょっと大きくなって自分で動き出したら、転落やら交通事故やら変なものをのみこむやら新たな危険が押し寄せてくる。ちょっとしたことですぐ死ぬ。

不謹慎ながら、おっさんとしてはもうこれはゲームの「スペランカー」を思い出さざるを得ない。

 

日本の乳児死亡率は1000人に2人らしい。世界平均では1000人に28人だそうだ(2021年)。

日本の低さは奇跡的に思える。こんなに危険に満ちていても、99.8%は1歳を迎えられる。

99.8%?

 

アメフト漫画「アイシールド21」で蛭魔妖一が言っていたセリフを思い出す。

「勝率は...99%ってとこだな」

これに喜ぶメンバー。対して蛭魔は深刻な顔で言う。

「1%、負けるんだぞ」

 

これに倣えば、

「0.2%、死ぬんだぞ」

とんでもない。こんなに必死で育てても0.2%死んでしまう。それが絶対に自分の身に起きないとは言い切れない。その事実が怖すぎて受け止められない。

 

しかしアフリカなら、乳児死亡率が1000人に50人を超える国もざら。今戦争が起きている国でも、過酷な状況で子供が死んでいく。

自分で子育てをしてみると、戦争がいかに大きな不幸を作るのか身にしみて理解できる。

ズルい女

息子 0歳

 

女はずるい、赤ちゃんにおっぱいを与えることができるから。

 

時々妻にぐっすり寝てもらうため、夜のお世話を担当する。

ミルクはだいたい3時間おきに与えることになっているが、そううまく起きてくれるものでもない。2時間しかたっていないのに泣き始めたり、4時間眠りこけたり。

長く寝てくれるのはいい。あらかじめミルクを作っておいておなかがすくのを寝ながら待つだけ。問題は早く目覚めて泣き始めるときだ。

 

女性であればひとまず母乳を与えて落ち着かせる、という手段が取れる。

私にはできない。

まず抱っこしてあやしてみる。機嫌が直らなければミルクを与えるしかない。超スピードで湯を沸かし調合に入る。流水で人肌まで冷ますが、焦っても温度が下がるスピードは変わらない。

その間この世の終わりのように泣き叫び続ける息子。ほんの5分程度だと思うが、未明の集合住宅だ。間違いなく他の部屋の住人に迷惑をかけているだろう。10分にも20分にも感じられる。いたたまれない。

必死の思いで哺乳瓶を息子にくわえさせると、ケロリと泣きやんでゴキュゴキュと音を立て飲み始める。可愛いのだけれども、この虚脱感。お前はなぜそんなに平然と飲み始められるのだ。

途中で「もういらん」とばかりに哺乳瓶を口から離したりすると多少いらっとする。さっきまで死にそうな声を上げていたじゃないか。飲め。最後まで飲め。

しかし無理に飲ませても結局吐き戻す。赤ちゃんには勝てない。

 

女にこの焦燥感と無力感が分かるか。

 

人にもよるが、女性は赤ちゃんに母乳を飲ませないとおっぱいが張り、乳腺炎になったりすることもあるそうだ。母乳をやることができるというのと表裏一体で、母乳をやらなければいけない母体の仕組みに縛られている。

そのしんどさは男などには分からない。

ちなみに母乳は血液からできているのだそうだ。赤血球は含まれていないから白くなっているだけで。

母親は産んだ後も、赤ちゃんに自らの血を分け与えているということだ。そもそも母親は大量の血を流して赤ちゃんをこの世に送り出してもいるのだ。赤ちゃんは母親の血と引き換えに生かされている。

こんな強いつながりは父親には持てない。ずるい。ありがとう妻。

時間泥棒

息子 0歳

 

赤ちゃんは時間泥棒だと思う。「時間泥棒」とは、「人の時間をうばうものごと」(三省堂国語辞典)。例として「ゲーム」や「遅刻」が挙げられている。

子供が生まれる前、私の時間泥棒といえば仕事とゲームだった。仕事はそこそこ好きで、ゲームはもちろん熱中してやっている。麻雀やらクイズやらにのめりこんでいた。それらに時間をもっていかれるのはまあ、納得だ。楽しいのだから。

 

まず育休を取った。当然仕事の時間はなくなる。いや今はスマホでちまちま対応してしまったりもするが。

育休は息子の世話をするためだ。当然ゲームの時間は減る。麻雀を打っている間に息子が泣き出したら投げ捨てて行かなければいかない。

かくして息子はめでたく新たな時間泥棒の地位に就いた。

 

妻は母乳をやってくれているが、ミルクも与える混合栄養。だいたい3時間おきのミルク作りと授乳は分担している。

おむつも濡れていることに気づけば替える。ぐずったら抱っこであやす。遠出をするわけにもいかない。

 

子育てをしたことがある人なら、「背中スイッチ」という言葉は知っているだろう。職場の子育て先輩(たいがい年下)からもよく聞いた。

抱っこしている間は寝てくれるが、床やベッドに置いた瞬間に目を覚まし泣き始める。まるで背中にスイッチが付いていて反応しているみたいだ、というわけ。

うちも例外ではなく、結局多くの時間、息子を抱っこして過ごす。この状態では本や新聞もなかなか読めず、ネットサーフィンも難しい。せいぜいテレビを眺めるぐらい。それでも息子がぐずれば体を揺らしてあげたり歩き回ったり。

うちの子は縦抱きにして上下に動かされるのが好きなようだ。当然他のことに集中できるわけもない。

 

赤ちゃんは「自分の世話に集中しろ」とこちらに強要する。効率よく他のことと両立させるなんてことを許してくれない。言葉で「こうしてほしい」と伝えてくれないから、なぜ泣くのかもわからない。試行錯誤してその望みを叶えてあげないといけない。

なんと不合理で、非効率なのか。どんどん時間をもっていかれる。笑顔に癒やされるとはいえ、ストレスはたまる。

 

でも。

ミヒャエル・エンデの「モモ」を思い出す。この物語にも「時間泥棒」が登場した。時間泥棒は人と人の交流の時間を無駄なものだとして、人々にその時間を削らせた。人々はせかせかと生きて、時間を節約しているつもりが盗まれていた。

私は赤ちゃんに時間を盗まれた。「お金を稼ぐために働く時間」や「自らの楽しみを追求する時間」が奪われた。

でも、代わりに「わけのわからない他者に向かい合い、無償で尽くす時間」は手に入れた。それは「モモ」の世界で人々が時間泥棒に盗まれた時間。

 

育休は1カ月。長くも短くも感じられた。これは充実しているからこその感覚だと思う。赤ちゃんは時間泥棒でありながら、いくら時間があっても得難い時間を与えてくれるものかもしれない。