子育ておじさん

40代のおっさんの子育てメモ

純粋経験

息子 0歳

 

くまのプーさんのメリーを眺めながら「あーうぇいーあおああーえあーーょーぅあ! フー!」などと喜ぶようになってきた。「クーイング」という段階の発声らしい。

 

妻は「早くしゃべれるようになって意思疎通できるとよいね」と言う。確かにそれで息子の欲求を満たすのが簡単になりそうだ。「遊んで」でも「おなかすいた」でも「眠い」でもいい。「赤いのが好き」「プーさんが好き」などと言ってくれれば絵本やおもちゃを買うときの参考にもなるだろう。

 

言語化によって我々の意思の伝達はスムーズになっている。人それぞれ細かいところで感じ方は違うのだけど、ある程度までは世界を同じように捉えており(少なくとも同じように捉えていると信じており)、言語を共有することによって世界を共有する。だから相手に働きかけることもできる。「暑いからエアコンつけて」なら、「暑い」という概念、「エアコン」の指すモノ、「つける」という行為の内容を共有しているから話が通じる。さらには「暑い」というからには暖房じゃなくて冷房が必要だということも理解できる。

言語は大変便利だ。

 

ただし世の中には、言語化によってこぼれ落ちていくものもたくさんある。芸術作品にいたく感動したとき、それを余すところなく言語化して誰かに伝えるのはあまりに難しい。2008年の北京五輪で連覇した北島康介さんの名言「何も言えねえ」にこそたくさんの真理が含まれているのはすごくよくわかる。

 

我々親はメリーを見てはしゃぐ息子に対し、「プーさんが好きなの?」「『花のワルツ』楽しい曲だよね」などと、どうにもこうにも分析したがってしまう。

しかし恐らく息子には「プーさん」という概念はないし、クマという概念もない。人形、黄色、音楽の概念もない。赤ちゃんはそもそも大人と世界を共有していない。

 

哲学者・西田幾多郎の重視した「純粋経験」を思い出した。難しくてちゃんと理解できているか怪しいのだが、「存在そのものを、分析したり言語化したりせずにあるがままに受け入れる経験」なのではないかと思っている。

これは大人にはなかなか難しい。大人は分析し、言語化する癖がついてしまっているからだ。

赤ちゃんは言語化をしない(できない)。プーさんが音楽に乗ってぐるっと一周してきた、楽しいな、なんて明晰には思っていない。ただ何ともわからぬものが何ともわからぬ仕方で立ち現れ、それを純粋に経験する。何ともわからぬ感情が内に呼び起こされる。その結果の「あーうぇいーあおああーえあーーょーぅあ! フー!」なのだ。この叫びには、大人が言語化する際に取りこぼしてしまうものが間違いなく含まれている。

 

クーイングから喃語へ、そしてちょっとずつ世界と結びついた言語が発されるようになるという。ありがたいことだ。とはいえ、今、大きな声で叫んでいる「言語化されないもの」が失われていくと考えると一抹の寂しさもある。